昭和41年05月15日 夜の御理解



 二、三日前に熊本から電話が掛かってきた。吉田さんと云う熊本から吉田さんと云う人が何人も参って居られます。久保山先生が受けてあるから名前を聞いていない。前にお届けをしとったとこう言われますけど。何人もあるから分からん。入院を致しますからどうぞ宜しくお願いしますと云う事だったから、名前も分からん。ですから熊本の吉田さんでお届けさして頂いた。
 今日奥さんが御礼に出て参りましたからああこの方だったなと思うた。広大なおかげを頂いて居る。その前日にレントゲンを、確かに何とかと云う難しい病名を云うて居りました。はっきりレントゲン写真に出ておりますから、それを切開手術をして取り除かねばならぬと云うのである。
  昨日ま二時間から三時間かかる手術だそうですが、そしてその手術を始めて切開した所が、レントゲンに出ておったその塊が全然なかった。それでびっくりしまして、その方はレントゲン写真の間違いだろかと、云うてそちらの方を調べた所が、そちらも二十年間も写真専門にやっておる方で、ベテラン中のベテランと云われる程しの方、只不思議と云うてその侭おかげ頂いて。
 だからその切口さえ塞がれば退院のおかげが頂けると云うおかげ頂いた。だからもう両親は信心が浅いもんですから、ほんと医者が間違えてから切らんでもよいのに切ってからと腹かきなさるそうです。けれども奥さんだけはほんとに椛目の金光様のおかげ、偉大さに夫婦で感激致しましたと今日御礼に出てきました。先程竹内先生のお届けの中にある、伊万里の方の、先日からお届けがあっておった、孫さんが高校二年生で家出した。あちらこちら手を尽くしたけれど分からない。
 最悪の場合を心配してのお届けであった。ところが詳しい事は分かりませんけれども、御礼のお届けにここに書いてあります。ほんとに有り難う御座いました。大都会で三人の友達一緒に見つかるとは、椛目の金光様のお徳のおかげで御座います。いろいろ書いて御座います。只ふがよかっただけでは済まされない様なおかげなんです。例えば今日お取次さして頂いた、二つの事からですたいね、なるほど医学とか人間の知恵、力とか云ったもの、いわば医学とか科学とか云ったものを超越した働き、そう云う働きが頂けて居るのが神様のおかげであると云うこと。
 そこで私共が矢張り、信心さして頂く者の考え方と云うものが普通の者の考え方ではいけない。そえを私は今朝から本当の見方、本当の考え方だと聞いてもらった。本当の考え方、それをある人は言わば超人間的だとか超自然とか、言わば一つのものを乗り越えたものの様に云うけれども、信心さして貰う者は、そこんところを教祖の神様ははっきりお示し下さってある。
 信心する者は肉眼をおいて心眼を開けとこう仰る。心眼を開かなければそう云う思い方とか考え方が出来ないのである。今迄例えば肉眼で見た世界で難儀と思うておった事を、難儀じゃなくておかげと見る事なんです。ですからそれがおかげとなって来るのです。それを確信しておる、私の御取次のまにまにそう云う御礼のお届けの中でも、超の付く様な普通では考えられない、おかげが頂けて居るです。
 そこで例えば、見方考え方と云うものが、私の信心の信条となり、それを皆さんにお取次ぎさして頂くのですから、それを皆さんが頂きなさらにゃいけんのです。今日も先程竹内さんがお届けをしている。正教さんが今朝からお夢を頂きました。もう初めから最後までもう夢の中で大変な感激をして居るお夢である。中に私が段々段々小さくなってゆく。というお夢を頂いておる。
 そして小さな水溜りに入って消えて無くなる所を頂いた。そして若先生に私は御霊の世界でも、人間の世界でも何処からでも、私の働きは出来るのだと云うて若先生に、榊の木を渡している所を頂いている。久富先生が頂いておられる。久保山先生も頂いておられる。誰でもが先生から榊の木を頂いておる所のお知らせであった。初めのその中に先生が耳納山の様な山に向かって、大地に平伏して御祈念をしておられる。
 その荘厳な姿に感激してから感泣しておる様なお夢であった。その榊の木を頂いておると云うこと。榊の木は神の木、神の心とこう云う。神の心を心としてと云う事は神の心を私の心の内に頂くと云う事。その榊の木をみんなに渡して居る。そう云う心と云うのは、言わばあの世もこの世もない働きの出来れる働きである。そういう信心を椛目で皆さんが頂いて下さらなならん。そういう信心を私から皆さんが頂いて下さらなければならない。私も又渡さなければならない。
 そこにお互いの信心の焦点を置かなければならない。云うならば先生の信心を、頂きたいと云う事にならねばならない。そこで先生はこの様な場合はどう云う風な生き方。こう云う時にどんな考え方をなさるであろかと、云った様な風にしてお互い私の信心を頂いて下さると云う事が確かに、私の考え方の中には超をつける程の思い方、見方が出来ると云う風に自分で感じます。
 人が難儀と云うた時には、ああ難儀じゃない、手を叩いて喜びたいごたるとこう言うておるでしょうが。そこに例えば科学とか医学とか超越した所の働き、そういうその働きを神様のおかげと云う。信心しておかげ霊験を受けると云う事は不思議ではない事。信心しておかげの無い時はこれぞ不思議な事じゃと仰る様な、矢張り不思議と云った言葉を以てしなければ不思議。
 当然不思議じゃないと仰るけれども、普通の考え方で云うと、不思議と言わにゃおられない様なおかげの頂ける道に、お互いが縁を頂いているので御座います。ですからそういうおかげを昨日の御理解でしたね、あの権威と云う事の御理解でしたね。天地の親神様が信心が臼杵の者為に神の権威にかけて、奇跡を見せると云った様な、おかげも同時に私共が芯を頂き。
 この神様を確信して、神様の心を心として金光様の心を心として、親先生の信心を私共の信心として、頂かせて貰う所の精進そういう信心が、成程信心しておればああ云うおかげが頂かれる。信心の無い人から見れば、目を見張る様なおかげを頂けると云う事。為に私共の考え方が、物の見方が、思い方が、少しは信心の無い者と違った、思い方考え方が出来る様な、おかげを頂かして貰う事に、精進しなければならぬ事になるでしょうが。    どうぞ。